一銭洋食とお好み焼とたこ焼と 大和のスローフード12

 “お好み焼とたこ焼”は、今や「粉もん」と持て囃される関西最大のファーストフード(地域特有料理)で、ソウル(魂)の食である。

 戦前(大正期)から駄菓子屋の鉄板上で小麦粉とキャベツ(洋野菜)千切りのみで焼き上げた一銭焼があった。筆者の経験では卵を持参するとそこに落としてくれ、ドロソースを塗って食するものがまだあった(一枚15円・卵は10円・一日の子供小遣い10円からすると贅沢品だった)。ファーストフード「一銭焼一銭洋食お好み焼・たこ焼の関係を少し記す。

 お好み焼・たこ焼の店舗が関西に流布多く食されるのは戦後期であるが、お好み焼の別称“洋食”は大正から戦前期ではハイカラスローフードであったようだ。

 現在でも店舗全国一は大阪で、特に堺。地理的関係から西大和の町場・街村にも影響を受け、戦後早くに各家庭にも丸形鉄板・丸形たこ焼鉄板がある家庭も多くあった。近頃は各地で独自の進化と共に個人店が減少する代わりに、チェーン化された商社により全国に店舗が拡散するに至っている。奈良大和にも新種の食べ物店舗が少なからず林立するが、若竹学園が差別化を提唱する関西焼き」とは異質のもの。

 史的には幕末に近い近世後期、江戸で小麦粉を水で溶いて焼いた「文字焼き」なるものが広がり、焼く時にタネで文字を書いて遊んだのが語源となって“もんじゃ”となったと言う。それを外の屋台で食す様に生地を固くし具材を入れ、客寄せに太鼓を叩いたので“どんどん焼き”と言われたらしい。

 上方では大阪天王寺での第5回内国勧業博覧会(明治36[1903]年3/1~7/31・最大最後の内国博:殖産興業を掲げる明治政府の物産展示会イベントで5ヶ月の開催で530萬人の入場と記録されている。)を経て大正期✤、どんどん焼きにソースをかけて一銭洋食」のソウルフードが爆発的に広まった。その後色んな具材を入れた「お好み焼き」が持て囃され、ブームとなった。

 肉・豚が一般的だが、例えば焼きそばを上にトッピングする「モダン焼き」、大量のねぶかで焼く「ねぎ焼き」、豚肉と卵を乗せた「とん平焼き」、生地の上に烏賊の切り身を乗せ鉄板で押し付ける「いか焼きが誕生した。地域性のあるお好み焼にも、具材にホルモン・蒟蒻を使う神戸の「神戸焼き」、岸和田の具材にかしわと牛脂ミンチの「かしみん焼き」、生地の上にキャベツ具材を重ねて焼いて卵を乗せひっくり返す「広島焼き」、金時豆と天かすを使う徳島の「豆天玉焼き」等を生んだ。

 最近では、国際性をおびてflexible(柔軟)でworldwide(世界スケール)な食と評され、「らしくないお好み焼き」がファンの間で人気らしい(朝日新聞2015/4/28夕刊:オコノミfrom英国)。反面東大阪・京都錦・大和広陵・大阪鶴橋に本部を構える商社チエーン店は、バリエーションを持つ味だが、質・見た目・素材は異なものである。

 一方「たこ焼き」は天保期(19世紀第2四半)、明石の鼈甲屋が柘植の木で作る、特産品珊瑚の模造品“赤石玉簪”製作において、卵白を固めて着色するのだが、黄味の処分に名産の蛸と結び付いて「玉子焼」となった。今でもご当地では「明石焼きとは言わず玉子焼と称し、つけ汁で食す。

 お好み焼きと同じ頃、鉄板の窪みに水で溶いた小麦粉を入れ蒟蒻・紅ショウガ・豌豆の具材に醤油で味付けし、三河カンテキで焼いたチョボ焼き」をて、味付け出汁の小麦粉生地にスジ肉・キャベツ・天かす・紅ショウガを入れた「ラヂオ焼き」(ラヂ(ジ)オ:洋食と同意のハイカラの意)が登場し、大阪会津屋(遠藤留吉:福島県会津坂下町出身)が昭和10[1935]年ラヂオ焼きに玉子焼の蛸入りを真似たのが原型となっている。戦後濃厚ソースが発明され、ソース・鰹の粉・青海苔のたこ焼が誕生した。筆者幼少の頃は、どの店でも当初10円で5個で後4個になった。

 ✤第5回内国勧業博覧会以後の背景:浪速のシンボル通天閣の「新世界」が明治45[1912]年7/3オープン。大正14[1925]年大阪市が東成・西成の44町村を編入して、人口211萬・面積181k㎡に拡大し、東京市を抜いて日本最大・世界6位の商工業都市「大大阪」の時代を迎える序盤の時期にあたる。ラヂオ本放送の開始は、大正14年7/12である。

(初出典:拙稿『奈良大和の食文化を考える』2015/3/14 加筆)

【freelance鵤書林120 いっこう記】

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