四天王寺は、『紀』に推古天皇1(593)年俳佛派物部守屋と崇佛派蘇我馬子の戦い時、聖徳太子が四天王像を彫り「勝利したら四天王を安置する寺院を建立する」と祈願したのが始まりと記す。
浪速の上町台地にあって市街に位置している為、再三の兵火と災害により、焼失と再建を繰り返した。塔は「七転び八起きの塔」と揶揄される如く現在8代目。古代から近世まで権門勢家たちの寄進があって復興・隆盛を続けるが、太子を釈迦そのものと考え礼拝・供養する太子信仰の浸透と共に多くの庶民信仰に支えられてきた。
浄土信仰の流布とも重なって、阿弥陀仏の西方浄土の東門にある寺として西門の西(大阪湾に沈む夕日)に浄土があるとされ、篤い信仰がい生きづいた(永仁2〔1294〕年我が国最古の忍性結界鎌倉石鳥居現存)。宗派は天台宗を経て現在和宗総本山、救世観世音菩薩を本尊として祀る。
享和1(1801)年焼失伽藍も十年余りで再建したものの、昭和9(1934)年室戸台風の倒壊復元するも昭和20(1945)年の大阪大空襲で伽藍は灰塵した。現在は戦後二十年をかけた鉄筋コンクリートを用いて原位置に伽藍が復興されている。太子を祀る聖霊院(前殿・太子殿・奥殿・経堂)・重文六時礼賛堂・重文元三大師堂・重文五智光院・布袋堂・大黒堂・庚申堂・方丈など神仏の庶民信仰御堂も健在である。また、三楽所の一つであった天王寺楽所舞楽が再興され引き継がれている。毎月の21・22の大師&太子の命日の縁日には今も庶民の参拝と共に多くの露天が並ぶ。
【freelance鵤書林34 いっこう記】
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