清水山吉田寺は浄土宗寺院で、先代山中長悦住職の発案で、開基恵心僧都(源信)の母親がぽっくり往生したことから「しみずさん・腰巻のお寺・ぽっくり往生のお寺」として腰巻祈祷寺として名を馳せ、誕生地の五位堂・阿日寺と共に本家争いを展開した事でも話題を呼んだ。
寺伝では、鎮守清水八幡宮旧蹟に接して「延喜式諸陵寮」に見る龍田清水墓(間人親王墓[天智帝妹])の存在から天智帝勅願による陵寺とし、叡山修行の恵心僧都来遊して永延2(988)年再興したとする。「八幡宮之旧跡地、偶得栗樹、大数十囲、(略)刻弥陀丈六尊像、建堂塔安之、云々」は、現本尊の「大和のおおぼとけ」と異名をとる本尊丈六(佛の基本大量:立像にして一丈六尺・坐像にして八尺)の壮麗な重文木造阿弥陀如来坐像(藤原・坐高約2.5m)の事と思われる。これらは、清水垣内西「字見光寺」に位置した「紫雲山顕光寺・坊舎六坊」の事と考えられ、顕光寺は筒井・古市と共に興福寺衆徒(寺抱僧集団)〔⇔国民:国人・地侍〕である龍田入道の居城「龍田城館」に隣接した菩提寺的性格をおびた寺院とも考えられ、寛正4(1463)年建立重文 多宝塔(方三間・高さ40尺・12m)も現存する。重文多宝塔の秘仏大日如来御開帳は、鳩逃がし朔日の9/1と2日。
その後、平群郡坂門郷の吉田村の地名が寺名となったと推測出来る(同郡平群郷の吉田村と区別する為に慶長以後小吉田村に改名)。山中眞悦住職・浩悦副住職の代に至り「清水山顕光院吉田寺」を名乗られ、本尊収蔵施設「奉安殿」が増設・庫裏が新しくなり境内地は入山料が必要になった。九月の朔日に行われる「鳩にがしの放生会」の起源や斑鳩の地名・葬儀の鳩にがし・鳩飼育風習を考える上にも寺の縁起は大変興味深いが、地元でも謂れに基づいた習慣も今は遠昔の事である。
【freelance鵤書林33 いっこう記】
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