法華寺(いっこう寺社解説9)

 法華寺は、藤原不比等の没後大邸宅を聖武帝皇后の光明皇后(娘光明子)が相続して、皇后宮となり官寺に発展、喜捨して総国分尼寺(法華滅罪(ほっけめいざい)之尼寺)を建立(天平勝寶元〔749〕前後)。平安期以降寺運衰え、鎌倉期重源や西大寺叡尊が創建講堂址以北の地に律宗尼寺として再興し、その荒廃を関ケ原戦いの翌慶長6(1601)年、豊臣秀頼命で7年を掛け奉行片桐且元(1556~1615)が大規模復興を行った。

 現在の寺観と七間本瓦四注造本堂(講堂or食堂址相当位置)・南大門・鐘楼はこの時の遺構である。中宮寺・円照寺と共に大和三門跡寺院として、温和な親しみの感じるたた住まいの尼寺で、今は光明宗。久我高照門跡の後を継いだ樋口教香門主が平成25年より法灯を守っている。

 創建当初の古代寺院は現寺門外南に展開、平城宮東院に接し南大門内に東西両塔を備え中門・金堂を廻廊で結び、背後に講堂・食堂・鐘楼・経楼・僧坊を持つ東大寺式七堂伽藍であった。また、南東に南院、海龍王寺に沿う北に倉院・政所が配されていたらしい。金堂は唐招提寺と同規模と正倉院文書からの復原で考えられている。皇后宮職の官衙や法華寺御息所という内裏的な機能を持った時期もあり、奈良朝期を通じて皇后と密接な関係があったのだろう。今は全くその面影は無いが、寺前の道路が東門と西門を結ぶ線の様だ。

 法華寺町集落の南で途切れた処の水田の下に天平寶字5(761)年皇后一周忌の斎会が行われた「阿弥陀浄土院」『続紀』の遺構が残る(平成12年発掘・国史)。庭園石材を観察すると古代の柱座の残る石材や礎石を多く見つけることが出来る。

 佛は、栄枯盛衰を物語る天平末期の如来や梵天・帝釈天の仏頭と共に維摩会の本尊であったであろう傑作の維摩居士坐像がある。厨子の中におわす唇に鮮やかな紅をさす秘仏本尊、国宝十一面観世音菩薩(貞観)は天竺の佛師が光明皇后を象って作ったと伝え、蓮華光背の榧の一木彫佛は麗豊甘美な女性を感じさせる姿である。戦後になって普段は模刻の佛がお立ち前として祀られる様になった。鎌倉復興期の佛画、阿弥陀三尊並童子像もある。

 光明皇后が病人・貧民の救済願いを立て、湯殿で千人の垢・汚れを流す施浴をしたという伝承(「千人施浴発願」『元享釈書』)から、中世復興室町後期の浴室遺構「から風呂」(重要有形文化財)が現存する。また建礼門院雑仕「横笛」と滝口入道時頼との恋伝説える尼僧横笛堂(寺内最古建物)が旧寺地の門前に残る。

【freelance鵤書林21 いっこう記】

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