奈良朝期藤原不比等邸の東北隅にあり隅院(隅寺)と呼ばれた古刹。寺地は平城京条坊地割には合わず、白鳳期の古瓦出土から遷都以前に創建があった事は確かである。天平3(731)年光明皇后により伽藍建立を見たと伝承するが、平安期には衰微。鎌倉期解脱房貞慶により復興、泉涌寺定舜が北京律を実践したしたと言う。現在天平建築の西金堂(国宝五重塔小塔安置)と鎌倉中期の経蔵が遺り、中金堂址に江戸中葉建築本堂(市指文)が建ち真言律宗西大寺末。
本尊は昭和28年まで秘仏であった中世復興期慶派の麗しき重文十一面観音菩薩立像。檜の寄木造で頭部の自然な俯きに優しい手の動き腰の捻りの姿勢に加え、腰布の切金模様や装身具は誠に美しい。文殊菩薩は、厳しい表情にも手に持つ蓮花の上に経巻を乗せた珍しい形である。
小ぶり寺院だが往時は興福寺と同様三金堂伽藍を持ち、遣唐使で在唐17年後、嵐の航海に会うも海龍王経を唱え種子島に漂着・無事帰国した玄昉が初代住持となった事から聖武帝が寺号を「四海安穏佛法弘通」を願い海龍王寺と定めたと言う。よって旅行安全の祈願信仰がある。東金堂址の横の四脚門表門・土塀は中世の遺構。実物1/10の国宝五重小塔は組み物部分の細部の建築技法は必見。隅寺心経と呼ばれる奈良期書き写し般若心経多数所蔵。
ご住職は、イケ住の石川重元師(1966年生れ・NPO法人寧楽平城奈良理事長)で東日本大震災後、七海の海水を舎利容器として「四海安穏祈願供養」されている。平成29(2017)年は玄昉や阿部仲麻呂の渡唐1,300年の歳であった。
【freelance鵤書林20 いっこう記】
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