興福寺(いっこう寺社解説5)

 興福寺は、天智9(669)年病を得た藤原鎌足の為に、夫人鏡女王が京都山科の私邸に建てた山階寺天武1(672)年頃に飛鳥厩坂に移転し厩坂寺とした事に始まる。その寺を平城遷都と共に、鎌足の子藤原不比等が現位置に一坊全域を占地して移し、新たに堂宇を造営、藤原氏の氏寺として攘災興福の寺となる。孫にあたる聖武帝・その皇后で娘光明皇后も携わり、壮大な半ば官寺伽藍が8世紀半ばには完成を見た(『続記』養老4〔720〕年開始)。

 法相宗大本山として春日社と共に藤原氏栄華象徴の正面中・左右東・西の三金堂を備え・東南に五重塔・西北に円堂を配した七堂伽藍は荘厳を極めた。平安期以後度重なる災害のたび庇護を受け復興を果たし、中世以後大和国の守護を兼ね荘園の拡大と一国末寺化(官寺東大寺と多武峰妙楽寺を除く)を成し遂げ、朝廷での「奈良法師」とはこの寺事で現奈良公園内全域が塔頭の甍が連なる寺域であった。

 享保2(1717)年中心伽藍火災を経て明治の廃仏稀釈で北円堂・三重塔(鎌倉初)、東金堂(奈良朝様式)・五重塔(共に6代目室町・高さ50.8m)、赤堂と呼ばれた仮中金堂(享保・町衆仮再建)・八角円堂の南円堂(4代目江戸・重文・9番西国三十三礼所)を残して徹底的に打ちこわしを受け廃寺同様に衰退。国宝東金堂は、薬師如来浄土(東方浄瑠璃光世界)堂で、本尊は重文薬師三尊(室町)、重文日光・月光菩薩(白鳳)、国宝多聞天(貞観)、国宝十二神像国宝文殊菩薩・国宝維摩居士(鎌倉)がおわします。

 伽藍境内地は、平成の大整備「天平の文化空間の再構成」と300年の悲願平成22年着手30年10月の落慶予定の中金堂8回目の再建復興が多川俊映貫首のもとで進む。現在の仮講堂は元西ノ京薬師寺の嘉永5(1852)年講堂建物の譲渡遺構。安置の重文康慶作四天王像が、東博での運慶特別展を機に平成30年国宝に格上げされ、当初の安置場所南円堂の不空羂索観音菩薩の元に戻されることが決定した。

 興福寺国宝館は、昭和34年食堂址に鉄筋コンクリートで外観を復原して宝物展示博物館相当施設として開館。平成22年リニュアルを経て、西金堂から助け出された光明皇后の思いとする童顔した阿修羅像などの八部衆十大弟子(天平)や東金堂佛壇から昭和12年世紀の発見と騒がれた中世再建東金堂三尊の旧飛鳥山田寺仏頭(白鳳)など国宝40点・重要文化財19点などを展示する。平成29年中は耐震補強・展示デザイン改善の為休館を経て、平成30年1月1日再リニュアルオープンした。

【freelance鵤書林17 いっこう記】

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