法隆寺西院(いっこう寺社解説19)

 現在の法隆寺西院は推古帝15(607)年、用明帝の遺志を継いだ推古帝と聖徳太子創建の四天王寺式伽藍配置の前身寺院「斑鳩寺(若草伽藍)」が、天智9(670)年落雷による火災の為焼け落ちた寺院を受け継ぎ(薬師像光背銘「推古帝15年」・「法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳」天平19(747)年・『紀』)、白鳳期に場所方位を変えて再建された寺院であることが、明治から昭和初期の歴史学界を二分した「再建非再建論争」を経て判明している。

 向かって右に金堂(二重基壇・桁行5間梁行4間・鴟尾を乗せた重層入母屋造)、左に塔(卍崩し組物高欄・人字形割束(*股)・高さ31.5m、初層塑像群・和銅4〔711〕年造)・中門(塑像最古の金剛力士像)・廻廊の順で建立を見、背後に講堂左右に鐘楼・経堂法隆寺式伽藍配置である。金堂・五重塔・中門・廻廊は白鳳期木造建築で高麗尺を使用した、強い胴張りを持った太いエンタシス様の円柱、深い軒を支える皿板のついた大斗・雲形曲線の斗や肘木の組み物に随朝の影響・飛鳥様式を伝え、明らかに天平建築と異なる。再建法隆寺の瓦は複弁八葉蓮華文軒丸と均整忍冬唐草文軒平の組み合わせである「法隆寺式軒瓦」。一方普門院(元観音院)南の「字若草」の前身寺院の「斑鳩寺」所用瓦は、飛鳥期の素弁八葉蓮華文軒丸・単弁忍冬文装飾六弁蓮華文軒丸と手彫り忍冬唐草文軒平(我が国初の軒平瓦採用)の組み合わせである。西院法隆寺建立年代は、中門塑像仁王像(和銅4年)から7世紀末から8世紀初頭と考えられている。

 昭和9~30年の国家事業の解体大修理事業(文部省法隆寺国宝保存事業部・法隆寺国宝保存工事事務所)・昭和32~60年奈良県解体修理事業(教育委員会文化財保存事務所法隆寺出張所)この二つを指して「法隆寺昭和大修理」。また、昭和53~60年の防災施設設置事前調査事業(奈文研・橿考研)、昭和資材帳編纂事業(法隆寺・委員会)で、世界最古の木造建築寺院の実態が明らかにされ、平成5年12月、我が国最初に世界文化遺産登録がなされた。

 金堂内の3間×2間須弥壇安置本尊は中央、国宝・金銅釈迦三尊(光背銘・推古帝31〔623〕年)である。東に金銅薬師如来西に金銅阿弥陀如来四面壁に佛教絵画天井に鳳凰が止まる天蓋が覆う。四隅を四天王が守り、毘沙門天・吉祥天女像が左右にお立ちになっている。何れにしても佛法興隆の中心聖徳太子によって大規模な地割を以て、住まいの傍に誇示し並んだ位置に斑鳩寺なる寺院を造営して基が開かれたと見られる。

 罹災・上宮王家滅亡の後、7世紀末葉に至り、誰が再建したのかは「縁起」にも「正史・稗史」にも全く触れられず、私寺から官寺への動きも謎に包まれており、学問上文化史に占める寺の位置づけに大きな相違がある。拝観には次の五エリアと捉える事が出来よう。⑴伽藍中心の西院建造物と佛像群。⑵薬師坊庶民信仰の西円堂と周辺建造物。⑶聖徳太子信仰の中心聖霊殿と周辺。⑷客佛百済観音堂と白眉宝物安置の大宝蔵殿院。⑸新旧宝物拝観の宝蔵院殿(我が国初の寺社宝物収蔵展示施設)と塔頭群の建造物が中心となる。

 現在18.7万㎡の広大な敷地に奈良~江戸の50余の堂宇の建物群が建ち並び奈良前期(飛鳥様式・白鳳)・奈良後期(天平)・平安(貞観・藤原)・中世(鎌倉・室町)時代の国宝・重要文化財二千三百余点を収蔵する。まさに古代から現代までの各時代を代表する建築・宝物の文化遺産を伝える佛教文化の宝庫であり、我が国独占の飛鳥・白鳳美術の殿堂。一山は内紛・天災にみまわれるも、幾多の戦乱・兵火にも合わず荒廃を掻い潜ってきた奇跡としか言いようがない生きた博物寺院である。大陸風の建築様式による多数の寺院が飛鳥地域と並んで斑鳩の地は、我が国佛教文化が開花した故郷であるが、近代の維持困難の荒廃期を脱した法隆寺の占める位置は桁外れに大きい。戦後佐伯定胤狠下の後を受け聖徳宗総本山として、佐伯良謙・間中定泉・大野可圓・桝田秀山・高田良信管長と受け継がれ、6代管長大野玄妙(129世住職)師が聖徳太子信仰の新たな「法隆寺学」を発信している。平成33(2021)年は、太子1,400年御遠忌を向かえる。

【freelance鵤書林31 いっこう記】

0コメント

  • 1000 / 1000