喜光寺は別名菅原寺といい、養老5(721)年僧行基49院の4番建立の寺で、東大寺大仏建立の布教活動の拠点としたとも言う。行基菩薩は天平勝寶1(749)年、寺の東南院で示寂した(『行基年譜』)。本堂は、「試みの大佛殿」の異名をとり、本尊藤原期の阿弥陀如来坐像佛がおわします。異名をとるが室町期の天平様式を倣った和様建築である。現在は山田法胤兼任住職・小林鐸應副住職の薬師寺末の法相宗別格本山。インド産の菩提樹が植えられ前面には睡蓮に続いて蓮鉢80種250鉢が境内を彩り、近年南門建立・行基堂完成されるなど伊呂波写経浄財による寺観整備・寺おこしが進む。以前は、會津八一も記す様に「屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず。境内には所狭きまでに刈稲の束を掛け重ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。云々」とある荒廃ぶりであった。西に片付けられているが、近世の庶民信仰三十三観音礼場石仏が本堂基壇を取り巻いてお祀りされていた無住寺の様だった。
この地は佐紀盾列古墳群に関係した土師氏集団の居住生産地で、奈良朝末期の元應元〔781〕年、(光仁帝御世)菅原臣姓を賜り菅原と称したとあり、菅原道真の出身地でもある。
【freelance鵤書林23 いっこう記】
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